外資系ITから転職することになった話。
今、出張に来ていてこのエントリを書いてる。来月からは新しい仕事につくのでこの出張が最後の仕事になる。(はずである。こまごましたタスクがまだ残っていることは知っている。)
外資系ITの会社に新卒で入社してから15年。
人がぐるぐる回っているIT業界において、少なからず驚かれることもありますが、次はIT専業ではないです。
プロジェクトや業務の進め方のコンサルタント、事業や経営のお困りごとを一緒に乗り越えていくためのコンサルタント、をしていくことになります。
今月末で今の仕事を卒業、来月1日からは新しい仕事です。ダウンタイムゼロという、システムリプレースならかなり難易度の高いプロジェクトになりそうな移行計画。ぎりぎりまでがんばってます。(こまごましたタスクがまだ残っていることは十分理解しております。)
で、このエントリを書こうと思ったのは、転職ノウハウ系な話ではなく、辞める前のここ数週間のうち、少しばかりゆっくり時間をつくって何人かの人とおしゃべりができて、そのおしゃべりが楽しかったから。
これまでの15年間にあったことをいろいろと思い出したし、書き残すことで良い振り返りになるなって思ったのがひとつ。それと、お世話になった人たちできちんとご挨拶ができていない人にも少しだけおしゃべりした気分になってもらってお礼の気持ちを伝えられればと思ったのがもうひとつ。それと、他でもない自分のための振り返りとこれからに向けた気持ちの整理として書いてみました。
↓こんな感じで書いています。だーいぶ長くなってしまったので自分のことを知っているかたには関わりの多かったあたりと最後を読んでいただけらと思います。
1. 新人時代(2002~)
2. 転機・育休時代(2008~)
3. 社外活動時代(2010~)
4. 本業回帰時代(2013~)
5. 転職のきっかけとこれから(2017~)
1. 新人時代(2002~)
IT業界を志したきっかけ
高校の入学祝いに買ってもらったMacにハマって、コンピュータに携わる仕事にしたいと思ってた。コンピュータに携わるといっても、とても小さな夢で、、当時の夢は「毎日パソコンを使う仕事に就きたい」だった。今じゃパソコンを使わなくても済む仕事を探すほうが大変だっていうのに。。いつからそんな時代になった??(インターネットがあるかないかくらいの時代でパソコン持ってるやつもクラスに少数だったり、パソコンはもっと特殊な存在だったんですよ。。)
念願かなって、外資系ITに入社が決まった。
最初の配属先はシステム導入のプロジェクトマネジメント部門。1つ上の先輩はいたものの、その上は10こ上とか20こ上とかベテランさんばっかりの部署で、そこに至るまでの途中ステップはまったく見えなかった。。どうやったらこういう人たちみたいになれるんだろうって。けど、そこにいる人たちは本当に素晴らしくて、今にいたる働き方のスタンスへ与えた影響は非常に大きかった。本当に感謝しています。この部署からスタートできて良かったです。
新人歓迎会から「お前の価値は何や?」とか問うてくる先輩もいたりして、まぁ、個性的な人も多かったけど。そこがまたよかった。
働き方の土台
とても印象に残っているエピソードがある。新人で自信もなくて仕事も遅くて、毎日終電まで居残っていたときがあって、それを知った先輩が、「そんなに遅くまで働いてたら仕事が遅いダメなやつって思われるよ。早く帰れよ。」と言い放った。理系の研究室カルチャーが染みついていた自分はびっくりした。研究室では遅くまでがんばっている先輩すごい、寝ないのかっこいい、みたいな考えがあったから。
そっかー、外資系ってスマートとかプライベートを大切にするってイメージはあったけど本当にそうなんだって思ったのもひとつだけど、その後も一貫して、「仕事は時間ではなく成果で評価されろ」という考えを叩き込まれたと思う。
この一言がなかったら、している仕事の意味も考えず、ただただがんばることが自分の価値、というようなブラックな働き方一直線になっていたと思う。
2. 転機・育休時代(2008~)
チャレンジなプロジェクトと表彰
5年目もすぎたころ小さいながらもプロマネとしてプロジェクトを担当するようになり、いっちょ前に踊り場で伸び悩んでいたとき、大きなプロジェクトにチャレンジした。英語のお客さん、会社としてこれまでの付き合いはなし、関係する部門も事業部の中としては過去最大規模。
※そのときに学んだことはこのあたりに残している。
働くために働いてるんじゃない。幸せのために働いている。外国人お客様のプロジェクトより学んだこと。
結果として、プロジェクトは納期を守り無事にサービスインもした。社内で表彰もされた。家族を連れて海外に行って偉い人たちとお食事できる、みたいな賞だ。毎年、表彰されている人たちの旅行記を聞きながら密かながら憧れていた賞だった。
その年の渡航先はベトナムで、旅行ガイドを買ったり、ベトナム語の本を読んで自己紹介はできるくらいになろうなんて勉強もして、とっても楽しみにしていた。飛行機の便も決まって、あと1ヶ月、というとき。
リーマンショックが起きた。
表彰旅行は急きょキャンセルになった。会社もバタバタしてたし、世界もバタバタしてた。キャンセルになってしまって悔しい反面、まぁ、それはしょうがないよな、自分が社長でもそうするだろうな~、なんてなかば悟った気分でいた。
後日、記念品は作っちゃったから贈呈する、なんて話があって記念品はもらった。盾やら賞状やらベトナムの工芸品やら。それと、2008 Vietnam! とか書かれた写真のアルバム。
写真なんてないわけですよ、行ってないから。まったく白紙のアルバムを手に取りながら、何か崩れていくものを感じた。。これまで目の前の仕事に一生懸命打ち込んできて、評価もされて、でも、その評価や自分のがんばりなんてものは、世界情勢みたいなものでフッと吹けば簡単に消えてしまうロウソクのようなものなんだなーと。儚い。。
自分のために生きなきゃいけない。いつ会社がなくなっても、いつ会社から追い出されても良いようにしなきゃいけない。何のために働くか?誰のために働くか?をすごく考えるようになった。そんなふうに覚悟を決めさせてくれた機会だった。
育休
リーマンショックでプロジェクトも少なくなってみんな少しずつ暇みたいな感じもあったし、初めての子どもができたこともあって、育休を取ることにした。
当時はちょうど「イクメン」なんて言葉がワイドショーでも出てくるぐらいのイクメン元年で、取材も受けたりしてチヤホヤされながら育休に入っていった。
休んだのは3ヶ月。最初の数週間は仕事も気になりつつ、会社のメールも応答していたら上司から怒られた。「お前、何のために休んだんだよ?今向き合うべきものと向き合えよ、PCなんて開くなよ。」と。仕事が少ない時期とはいえ、めんどくさい調整もして快く休ませてくれただけでなく、こんな言葉を部下にぶつけられる上司。今でも本当に感謝しています。
それから1ヶ月くらい。オムツ替えもミルクも慣れてきて過度な緊張もなくなってきたころ。何かが足りない。。そう、日本語での大人とのコミュニケーションが足りない。赤ちゃんは可愛いけど、日本語は喋れないし、表情でのコミュニケーションもまだ難しい(当時生後3ヶ月)。育児ノイローゼになっていく気持ちもわかる。このままではヤバいかも。
というときにツイッターを始めた。週刊ダイヤモンドとかでもツイッター特集とかやってたころ。ヒウィッヒヒーとか言ってたころ。(懐かしい…)
うわー、ここでならたくさん日本語でコミュニケーションができるー!なんなら子育てとか境遇の近い人たちがたくさんいるー!といった感じで思いっきりハマりました。
ツイッターもこなれてきたころ、タイムラインに流れてきて育休復帰前ワークショップ的なものが気になったので参加しました。育休中で復帰を控えている人たちが集まって、今の心境や仕事との両立の話をする会だったんだけど、お母さんたちばっかりいる中に果敢にひとり男性として乗り込んで。
「仕事もしたいけど、生まれてきた赤ちゃんとの生活もとても大切に思えて、復帰していいのか、復帰できるのか、本当に、本当に悩んでいます。。」
復帰にあたっての想いをしゃべり始めるお母さんの中には涙を流し始める人もいて、恥ずかしながらびっくりした。自分は3ヶ月の期間限定で戻ることは当たり前に思っていたし、何の葛藤もなかったから。。
それと同時に、自分は女性には絶対勝てないなと思った。こんなに悩んだ上に覚悟を決めて、仕事を続けることを選んだ人には勝てないな、って。漫然と働き続けるつもりにしていた自分が恥ずかしかったです。。
このあとの社外活動時代にも書きますが、育休中に出会った人たちが自分の世界を大きく大きく拡げてくれました。育休取ってよかったありがとうございます。
※育休中のときに始めたブログ。こちらはまとめ的なエントリ。
育休日記を始めてから1年経って、ちょっと振り返り。
働き方や制度を調べたり、いろんな人とつながれたり、今になってもオムツ児の採尿日記がPVを伸ばしていたり、ブログ始めて良かった。
3. 社外活動時代(2010~)
「会社が社会のすべてじゃない」
育休を通じて強く感じたことだった。当たり前なんだけど、なんだかんだで会社の中のことばかりを見ていた気がする。
社外活動は、育休中に知り合った人でイベント活動が最初だった。WLB_cafeというオンライン&ときにオフラインでのコミュニティで、「子どもをもってはたらく」ことが当たり前にできないことへの課題意識でつながった人たち。共通点はこの課題意識だけだったりするので、業界も違えば得意なスキルも違う。イベント開催に向けてのボランタリーな組織運営は非常に勉強になったし刺激になった。
※WLB_cafeの当時の活動記録
ワークライフバランス・カフェ スタッフ日誌 2010年の記事一覧
そこから、社外の活動が楽しくて楽しくて仕方がなかった。
ワールドカフェワークショップのイベント、TEDxKidsへの参加、はてな近藤社長(当時)を迎えてのイベント、ライフネット出口社長(当時)に会いたいイベント、分厚い本を完読する読書会、etc…
最初はすごいなーと思う人について行って参加する側や教わる側であることが多かったけど、イベントを準備する側や主催する側になることの楽しさに目覚めていった。
やりたいことが次から次へとあって、今だから書いてしまうけど、、会社の仕事をサボれるよう調整して日中に社外の活動の準備したりして、夜に仕事してしのいだり、何ならちょっと業務時間足りてないみたいなこともあった。
でも、サボれるように調整したり工夫することも大切だということも学んだ。早く仕事終わってやりたいことやりたいんだもの。生産性向上のためにはやりたいことがあるのだいじ。(と、自己肯定しておく…)
ボランタリーな組織運営
本当にいろいろ学びばかりの社外活動だったのだけど、プロジェクトマネージャでもあった自分に大きな影響を与えたものはTEDxKidsの企画運営だった。
指示命令が使えない、使いづらいボランタリーな組織の運営において、いかに素晴らしいアウトプットを出すか?
社会的な大きなミッションも大事。でもそれ以上に個人の欲望みたいなものも大切にしてプロジェクトの文脈につなげながらアウトプットを大きくしていく。人が自分から自然と動くように場やコミュニケーションを作り上げていく。これはすげーなーと思って参加してました。
本業のプロジェクトマネジメントでも使えるじゃん、むしろ大事じゃん、メンバーひとりひとりを尊重して、みんなで楽しくプロジェクトやりたいじゃん、と非常に刺激を受けた。
※TEDxKidsの運営スタイルはここがわかりやすいので貼っておきます。Ryutaさん元気にしてるかな。
TEDx主催者が語る、"すごいコミュニティ"をつくるための5つのルール
4. 本業回帰時代(2013~)
社外活動を通じて、我ながら経験や知見が拡がっているなーと思いながらいつも引っかかっていることがあった。
これ、もっと本業に還元したいな、本業で同じようなことってできたら最高なのにな、本業と重ねられていないなって。そのことがいつももどかしく引っかかっていた。
実は、社外活動ばっかりやっているときにも、一度、転職の機会があった。結果うまくいかなくて転職にはいたらなかったのだけれども。
でも、そこで自問したんですよね。「社外活動で得たことを本当に今の会社で重ねようとしているか?実践しようとしているか??」って。もしかしたら、決められた仕事をうまくやる(サボる…)ことばかり考えていて、本業に重ねようとするチャレンジすらしようとしたことなんてないんじゃないか?って。
そこから、社外の活動はいったん控えて、本業回帰してがんばってみるか!と決めた。
やれることはたくさんあった
自分のプロジェクトでボランタリーな組織運営の考えを取り入れてみたり、社内のPM勉強会や会議でワールドカフェを試してみたり、会社を良くしたいと思う若手のコミュニティを立ち上げたり、育休中に知り合った人の会社が引っ越すというので営業連れてITの提案しにいったり、お客さんとの働き方の座談会イベントに呼ばれてみたり、社内でボランティアチームを立ち上げてみたり、社会貢献の現場リーダーを仰せつかったり、人事にプロボノの提案をしてみたり、社内外の関係者をつないで事業部で新しいサービスの立ち上げをしたり、社内の有志勉強会に社外の人を巻き込んでみたり・・・
やれることはたくさんあった。やらなかっただけだったということを改めて気づいた。やらせてくれた会社の懐の深さやカルチャーには感謝。やりきる力や経験がなくて立ち消えさせてしまったものも多々あって関係のかたがたには申し訳ない気持ちでいっぱいではあるけれども。。
既存のワクから一歩だけ出てみようと思った瞬間にこれだけやれることがあるのは単純に驚きだった。
社内でありながら本業になりきっていないものも多くあるけれども、本業以外でのつながりで本業が救われたこともたくさんあった。部署も年次も違うナナメの関係で相談できたり、助け合ったり。
また、今だから書いてしまうけど、社内でボランティアをするようになっていなければ、転職ももっと早かったと思う。
ボランティアで集まる人たちは、想いとスキルの両方を持っていて人間的にも素敵な人たちばっかりだった。社内にこんな面白くて素晴らしい人たちがいるんだということを知らなかった。うわー会社辞めづらくなったなーって思った。それまでは自分の組織の周りだけで会社のことを判断してしまっていたように思う。
公共系プロジェクトでの出会い
本業回帰の中でも、一番自分の中で大きかったものは、公共系のお客さんでの仕事。
最初は営業が取ってきて降ってきた案件だった。けれど、ボランタリーな組織運営を取り込んでみたり、プロジェクトのルールよりもお客さんも含めた個々の関係者の想いや事情を優先するようなプロジェクトマネジメントにしてみた。もちろん最低限の管理はするんだけど、いわゆる管理のための管理みたいな意味のないものは極力やらないようにした。
結果、大変なプロジェクトだったけど、ひとつ大きな枠でメンバーもお客さんも一緒に動けたし、一段深いところでつながれた気がする。お客さんも、公務員のイメージ間違っていましたすみません・・・、と思わせてくれるような熱い想いで仕事に取り組んでいる素晴らしい人ばかりでお客さんのキャラが合って実現できたことも間違いない。
それから長い付き合いをさせていただいて、もうどちらの職員だかわからないくらい深く関わらせてもらっている。
社内の提案チームも本当に素晴らしかった。本当に素晴らしい。各種営業、各種エンジニア、といる中で、自分の役割と責任はありつつ、チーム全体のために、お客さんのために、お客さんのシステムを使う人たちのために、それぞれの自分の役割範囲を越えられる人たちだった。(外資系ITでは本当に珍しいこと!!)
参入当初は社内では見向きもされない小規模な業界だったけれど、年々拡大していって、数字も関係者もたくさん増えた。これから大変になっていくところ、おもしろさも増えていくところ、抜けることになって本当に心苦しいけれど・・・、みんななら大丈夫。がんばって!
そうそう、途中で別のお客さんで単発の提案チームに入ったこともあったけど、ここでも同じように動けて本当に楽しかった。残念ながら案件受注には至らなかったけど。チームとは何か、人と人が仕事をするとはどういうことかを考えて、「そうそう、それが良いチームというものだよね」と思わせてくれるチームだった。メンバーがばらばらになっても今でもやり取りがあったりする。
日々、責任や役割やルールがある中でやるべきことをこなすことに視界が埋もれてしまうけれども、どこかでみんなわかっているんじゃないか。
今までのものよりももっと良いやり方がある、役割を越えてお互い助け合う方が成果が出るって。
そういうものを心から信じられるメンバーに恵まれて、本当に感謝しています。
5. 転職のきっかけとこれから(2017~)
一冊の本との出会い
本業回帰して、自分の関わるプロジェクトでは多少は思うような仕事ができて嬉しかった。一方で、組織全体に波及させようとしたときの力不足もずっと感じていた。自分のやり方は正しいんだろうか、、意味があるんだろうか、、もっと成果を出すためにはやっぱり何かを犠牲にしなければいけないのか。。。
・・・などと悶々としているときに一冊の本に出会った。
プロマネの本を何冊か読んでいる中の一冊だった。
「プロジェクトは人がやるもの」
「人は善良である」
人は責任を果たそうとするからこそ、2日で終わる仕事も予定を守るために5日掛かる、と言ってみたり、問題ありそうなのに心配させたくなくて「問題ありません」と報告してしまったりする。
人の特性を無視してマネジメントはできない。人の気持ちに寄り添って助け合うことでむしろ大きな成果が出る。実際に成果も出している。というものだった。
衝撃だった。プロマネの本で「人は善良である」と言い切った本は初めてだった。
今までの自分のスタイルでいいぞ、成果でないなんてことないぞ、がんばれ、と心から救われた気分だった。
それから関連の本を読み漁ったり、著者の活動は個人的に追いかけたりしていた。
本を読んだ直後はあまり講演などもされていなくて機会に恵まれなかったのだけれど、2016年になって社内のPM勉強会の事務局をやっているツテでたまたま講演の情報を入手した。一瞬で申し込んだ。自腹だったけど。そんなものは関係なく、ただただ直接に話を聞きたかった。
講演で刺激を受けて、懇親会のあとは物欲しげな顔で近くに張り付きながらおでん屋までついて行ったりして。いろいろおしゃべりさせてもらった。まぁただのファンだったと思う(笑)
※初めて講演会に行った日ののつぶやき記録
全体最適のプロジェクトマネジメント~月曜日が楽しみな会社にしよう!~参加記録
おでん屋の後、ぜひうちの社内でも話をしてもらえないか?孤独な仕事でがんばっている社内のPMたちを元気にしたいと正式に頼み込んで、その年の年末には会社内のPMコミュニティでの講演も実現できた。PMだけでなく約200人の社員が参加して、アンケートも過去最高くらいの高評価だった。感涙だった。
転職まで
今年に入って、部署の別のプロジェクトが炎上していてヘルプが必要な状態になった。問題はみんな仕事の余裕もない中で誰がヘルプに入るか?だった。担当しているPMは自分が新人のころからお世話になっている大先輩だったので、公共の仕事もあるのも承知で手を挙げた。
ヘルプに入ってすぐに先輩に休みを取ってもらうのを約束した。週末も出勤が続いていて、日ごろも睡眠時間を削りまくってがんばってたから。。
約束をしたその休みの日、その休みから先輩は仕事に戻れなくなってしまった。
悔しかった。。遅かった。。炎上プロジェクトと公共の仕事と両方に迷惑を掛けながらもやりきれず、先輩も助けられなかった。
※今では先輩も復帰して別の仕事で元気になってきている。休むにいたった経緯を振り返って、「むしろそれでよかったのかもしれない、定年に向けた働き方も考えるようになったし、このきっかけがなければ定年した瞬間にやばかったよ」と言っていた。本当によかった。本当に。。
そんなさなか、事業部内で働き方改革を始めるけどどう?て声を掛けてもらう機会があって、迷わず企画側で手を挙げた。
話を聞いていると、自分が想像していた以上にやばい、気がした。自分はプロジェクト系の部門なのだけれど、保守系の部門の現状は全く知らなかった。人がどんどん離れるんじゃないか、また誰か働けなくなってしまうんじゃないか、と心配になった。
そこで、社内の勉強会にも来ていただいたプロマネ本の著者のところに相談に行ったんだけれども。
で、結果から言うと、そこで転職の機会をいただくことになりました。
「一緒に働いてみるか?組織を本当に良くしたいなら、それを本業にするのも良いんじゃないか?」
その発想があったかーと思いながら、ひょうたんからコマみたいな話だったけれど。付き合いの長いお客さんでもまだいろいろやりたいし、炎上プロジェクトも少し回り始めたとはいえまだ途中だし、いえいえそれは難しいです、というのが最初に思ったことだった。
「まぁ、今度、社内の会議あるから見学においでよ。」と言われて、どんな社内会議をしているのか知りたい興味は強かったので、これは喜んで参加。
で、参加してみて、まぁ、度胆を抜かれました。。
丸一日の会議に参加。自分の担当する案件の状況を共有して、助けられることはないか、どうしたら良いか数十人が本気で議論している。50~60代のおじさんも多いのだけれど、こんな熱いおじさんたち見たことねーよ、何なんだこの人たちは、というのが第一印象。
会議が進むにつれ、自分はこういうことを議論したかったんだよ、自分の仲間と思える人たちがここにいる、この人たちと働きたい、と一気に心が動いてしまいました。なんなら会議中にちょっと涙が出てしまったくらい。。
と、そこからは早かった。
最終日と開始日を決めて、元の会社では引継ぎを始めて、次の会社では先行してインターンとしての活動を始めたり。今日のこの日にいたります。
「仕事は人がやるもの」
「人は善良である」
助け合うべきときに、助け合うべきものを助け合うことで成果を上げる。シンプルなようでいて難しいこと。そこに第三者として加わって伴走することに可能性を感じています。
成果と、健康と、人としての幸せと、これらを全部取りできる仕事場を、世の中にひとつでも多く増やしたい。
そのための修行と思って転職を決めました。
誰だって良い仕事をしたいと思っている。
誰だって自分のやっている仕事が世の中のために役立っているということを実感したい。
仕事は自分の心身が健康であってこその仕事だし、仕事は自分や家族の生活のための手段である。
他方で、仕事を通じて得られる幸せのような目的的なものもある。
これらを切り離すことなく、つなぎ直していきたいです。
NO LIFE, NO WORK.
最後になりましたが、きっかけになった一冊はこれです。
転職しないまでも、プロジェクトに携わる人、人を大切にしながら働きたい人にオススメです。