NO LIFE, NO WORK.

人生あってのしごと話。

ネット選挙解禁。ネットは社会をよくするんですか?

 

 

  このひとこと、ノイズかどうかはともかく、とても同感。

何に同感か?というと「ネットと社会」という関係について。

 

ネットが社会を変える、と言われて久しいですけど、本当でしょうか。

 

 「社会は情報化の夢を見る」という本には、こんなことが書いてあります。

「情報化社会」の神話。

産業資本主義が情報技術の加速度的な進歩をもたらし、「技術が社会を変える」という信仰を生みだす。情報技術の上に未来社会の「予兆」や「最先端」を発見してしまう態度自体が近代産業社会のなせる業なのだ。

「ネットが個人を…」「メディアが社会を…」といった話では、必ずといっていいほど、「先端的ユーザ」の事例が紹介されている。「先端的ユーザ」がどんな人間なのか、どんな教育を受け、どんな職場にいて、どんな生活を送っているのか。

 

たしかに産業革命でモノがいっぱい作れるようになった。便利になったのかもしれません。

さて、情報技術はどうか?

判断には懐疑的です。未来がこうなったらいいな、という「願望」を、情報技術の変化に乗せてそれっぽく語っていませんか?と。都合のいいケースを引っ張ってきているだけで、そのケースを引っ張ってくる文脈は何なんですか?と。

 

 メディア技術が個人を変える訳ではない。技術をどう使うかは社会が決めており、技術の側から知ることはできない。メディアの使い方をめぐる社会的コンテクストを欠いてはならない。

技術がどう使われるかを決めるのは実は社会の側ではないだろうか。はたして「情報技術が社会のしくみを変える」のかどうか全くわからなくなる。

 

情報技術があったから、その社会が実現されたのですか?社会がこうなったらいいなという願望があったから、その情報技術が生まれたのですか?卵が先か鶏が先か。

 

この1点において、ネット選挙が解禁されたからよい社会になる、というのは儚い幻と言っていいんじゃないでしょうか。

幻、が言い過ぎなら、前提を欠いた願望、でもいいです。

 

ネットにできることは、人と人の距離を近くすること。究極はそれだけだと思うんです。

 

人と人が近くなったらどうなるかって?それは自分次第、自分を通して見た社会次第なわけです。

 

演説カーをうるさいと思うのも自分次第、候補者が手を振ってくれて共感を持てたと思うのも自分次第。ネットで選挙活動が行われても同じこと。ネット上の発言に触れてノイズと思うのか、共感するのか、どっちなのか。

 

ネットが社会をよくしているかどうかなんてわからない。

 

社会を変えるのは、こうなったらいいなという願望、もしくは、こうはなりたくないという願望、から生まれた行動からしか変わらないんじゃないでしょうか。

 

ネットかどうかよりも、願うかどうか、行動するかどうか。

  

ネット選挙解禁に向けて尽力した候補者、僅差でネガティブキャンペーンを張り合う候補者。その横で日本の憲法を変えようとしている得票安泰な政党。

 

選挙も、大切な行動のひとつ。

何を知り、どんな判断を下せるのでしょう・・・

 

ネット選挙で人と人との距離が近くなるのであれば、どういった社会を望んでいるのか、望んでいないのか、そのためにどんな行動をしようとしているのか、という話をメインに語って欲しいなと思ってこのエントリーを書きました。

 

最後に、前回の総選挙で切々と感じたことを貼付けておきます。

 

 

それでも、願えば未来は変わっていくと信じています。

 

よき投票ライフを!