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世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析


2013年暮れのレコード大賞。EXILEが4度目の受賞の快挙となったそうです。
年が明けてのブログとなります。あけましておめでとうございます。

 

 

年末、レコード大賞前に読んでいた本なんですが、この本の1ページ目にもEXILEが登場していました。日本には「ヤンキー的なもの」がそこかしこに潜んでいる、という分析をした本です。平たく言えば。

 

90年代に故ナンシー関のエッセイに大きく影響を受けたことが根っこにあるらしいこの本。序盤に引用されているナンシー関のコラムはこんな感じです。

「私はつねづね『銀蝿的なものを求める人は、どんな世の中になろうとも必ず一定数いる』と思ってきた。そして、その一定数はかなり多いとも思う。あえて具体的数字を挙げるなら、自覚している人が一千万人、潜在的に求めているのは三千万にのぼると推測する。日本の総人口の三分の一が『銀蝿的なものに対してひかれがち』であるとは、何ともおどろきである。」

別のコラムで彼女は「老若男女の区別なく人口の約5割」としている。


『銀蝿』とは横浜銀蝿のことですね。80年代に一世を風靡した、ツッパリHigh School Rock'n'Roll。ヤンキーキャラが目に浮かぶでしょうか。最近の若い人は「??」でしょうか。歳がバレるでしょうか。ともあれ…あまり深くは触れずに先に進みましょう。

「ヤンキー的」なものが人口の半数に及ぶまで日本のそこかしこに浸透している、というのがこの本の超概要です。

 

「ヤンキー的」って?

冒頭のEXILEをはじめ、有名人でいうと「ヤンキー的」なのは・・・

EXILE、X JAPAN、矢沢永吉、亀田三兄弟、キムタク、工藤静香、浜崎あゆみ、B'z、白洲次郎橋下徹、天皇

 

特徴や、象徴的な言葉は・・・

リーゼント、パンチパーマ、ボンタン、改造制服、特攻服、改造車、気合い、筋を通す、原点、直球、愛、信頼、仁義、仲間、人情、ホンネ、更生、行動派、自国的、地元好き
「成功した偽善者」vs「誠実なアウトロー」
『仲間や家族、あるいは惚れた女のために、なりふりかまわず発揮される正義』

一方で、

ムートン、ファー、ぬいぐるみ、光り物、デコ(デコレーション)、といったファンシーさ。

 

そういうものが「ヤンキー的」なものであるらしいです。なんとなくわかります。なんとなく。怖いだけではなく(ひーごめんなさいごめんなさい)、アツさと人間味をもった気の良い兄ちゃん、といった感じでしょうか。

 

そして、金八先生なんかを例に挙げているのですが、「直球の愛と信頼で、仲間と行動して更生した」ストーリーはドラマの王道でみんな好きだよね、と言うんです。うん、そうですね、僕も感動してしまうと思います。そうそう、それそれ、それが「ヤンキー的」なものだよ、なんて言われたら、自分も「ヤンキー的」なものを求めている半数に入ってるかもと思えてきます。。

あとこんなストーリーは?小賢い政治家やエリートが、知識は乏しいけどひたむきに行動する青年にこらしめられるお話。こんなのも王道ストーリーだそうです。もう白状するしかありません。はい、僕もヤンキー的なものを求めています。I want Yankee...

 

そこで著者はたたみ掛けます。「ヤンキー的」とは、スタイルであり、象徴である。つまり、「何を成したか」よりも「どんな生き様か」が重視されるものである。ヤンキーには「本質的なもの」はなく「表面的なもの」である、と。

 

「本質的なもの」と「表面的なもの」

「隠喩的」と「換喩的」という言葉が出てきました。

隠喩的なものは、「『猫』のように気まぐれ」とか「『炎』のような情熱」といった表現ですね。換喩的なものは、例えば「聴診器→医師」とか「銃→兵士」といった対象そのものを想起させるもの。

隠喩は対象の本質を補足説明するもので、一方の換喩は対象の象徴となるものだけれども本質そのものではない、ということだそうです。ふむふむ。表現が難しい。。

隠喩的に「キツツキのように聴診器を当てる医師」といえば、なんか落ち着きない怪しい医者だなぁなんて、どんな医師であるかを表すけれども、「聴診器と医師」だけではどんな医師であるかは何も表していないと。(なんか説明が回りくどくなったけれども。)

で、ヤンキーで言えば、「リーゼント→ヤンキー」、「ボンタン→ヤンキー」であり、換喩でありながら、不思議とヤンキー的なものが表現できてしまう。それは、ヤンキーの本質的なものと表面的なものの関係が特殊だからだと、著者はこんなふうに書いています。

ヤンキーに本質を求めることが難しいのは、その本質が常に全面的に表出されてしまっているからなのである。「ホンネでぶつかる」ことを美徳とする彼らは、おのれの本質を隠蔽する気などみじんもない。むしろ彼らの内面は、その髪型、そのファッションを選択した後に、事後的に発生するのである。

 

「表面から事後的に発生する本質」に関連して、こんなふうにも書いています。

捏造された伝統。始原とはすなわち、「いまここ」のスタイルそのものなのである。そのスタイルに潜む様式性が、存在しない本質としての起源へと僕たちを誘惑するのだ。
不在の本質、不在の起源を隠蔽するべく「始原のもどき」としての繰り返されるフェイクの儀式。

 

 つまり、もともとは何か意味があって意思表示の表れとして存在していたリーゼントが(なんかじわじわくる言い回し…w)、いつしか、リーゼントだけでヤンキーを表すようになって、リーゼントが繰り返されることで表面的な表れでしかなかったものが伝統となり、その起源となった、と。表面上のコピーやデフォルメが繰り替えされることで、表面的なものがいつの間にか本質にすり替わる例である、と。

本の中では、似たような例として「ラーメン屋の作務衣」を挙げていました。中華料理が起源であるはずのラーメンが、家系のラーメン屋によく見られる店員さんの作務衣や藍染めのTシャツは何なんでしょう?ラーメンといえば元々は中華料理屋のコック姿が起源だったはずでは?・・・これこそが表面的なものが繰り返され、いつしかラーメンの起源(っぽく思わせるもの)になっていて、存在しない本質としての起源(ニッポンラーメンの起源があるかのような)への誘惑であると。

 

ぐぐぅ。。何かが繰り返されることで昔からの伝統だと思っちゃうことってありますよね。個人的には、節分の恵方巻きとか、子どもの時分の記憶にはなくて、伝統(少なくとも日本全土レベルの伝統)とは思ってなかったのですが、いつの間にか全国的伝統になってる感ありますよね。今年はどこどこの方角向いてかぶりつけ的な。恵方巻きの本質、誰か教えてください。。

 

「表面的キャラ」と「本質」のはざまで

「キャラ」は、表面的に伝わるもの、人に知られるもの、その人のことを表しやすいものとして使われる言葉かと思いますが、次の著者の言葉に思わず目をつぶりました。

「キャラ立ち」は内省性が希薄であるほうがはっきりしてくる。内面性や内省性は、キャラの同一性を複雑かつ不安定なものにする。

 

ときに表面的なキャラは本質を内省することの邪魔をする、キャラと内省は両立し難い、と突きつけるかのような言葉。

 

本質的だからこそ抽象的なもの
 vs
象徴的で表面的なもの

 

「大切なものは、目に見えない」

ずーっと昔から小さい王子様も言ってることなんです。


(と言っても1世紀もたっていないくらいの昔ですが。と本の教えも踏まえつつ。)

 

「ヤンキー」から深い問いに触れた年末でした。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

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